絆と縁。

この記事は、創作要素と想像要素を含みます。

 

先の震災で注目を浴びた言葉「絆」が、世間のあちこちで使われたことに、当時、何と言うか息苦しさを感じた。

「絆」とは「きずな/きづな」と読む。そして、きっと、「づな」は「綱(つな)」のことなのだろう。

「綱」とは、何かと何かを連結するもの。例えば、「手綱(たづな)」は、人間が馬をコントロールすための装置という側面があります。

「例え」の動詞形が「例える」であるように、「話」の動詞形が「話す」であるように、「繋ぐ(つなぐ)」は、「綱」の動詞形なのだと思います。そして、そもそも「つなぐ」を「絆ぐ」と書くことも可能です。

 

「きづな」の「き」は何だろうか。僕は、「生」と関係あるのではないかと思う。「生粋」を「きっすい」のように、あるいは「生地」を「きじ」、「生糸」と「きいと」と読むように、「生」には「き」という読み方があります。恐らくそれは、「息(いき)」と関係しているのだろう。

 

つまり、「絆」とは「生きている(有効な)綱」のことではないかと。そして、繋がれた状態というのは、緊急時に、短期的に人を救うかもしれない。でも、繋がれた状態が長期に渡ることを好む人は少ないのかもしれない。事実、この言葉もすっかり使われなくなりました、これは流行より深い問題なのかもしれない。

 

「絆」の反対語を考えてみた。それは、もしかしたら「しがらみ」なのかもしれない。明らかに「からみ」は「絡み」のことだろう。「し」は「死」なのかもしれない。そうであれば、「絆」の状態変化として「しがらみ」が存在するのかもしれない。

 

「絆」は、どうも、人間が人間のためにこしらえる印象がある気がする。

 

僕は、それよりも「縁(えん/ゆかり)」って言葉が好きだな。人ではない、多くの人が神と呼ぶ存在によって、偶然に引き合わされる。縁の存在を信じられること、信仰することができるならば、僕は、より穏やかな人生を送られると思いました。